ふわふわしたものを信じれないとだめだ。
そもそも、私たち自身がふわふわした存在だから
信じれなかったら私たち自身を否定する事になる。
ふわふわした中でふわふわしたものを信頼できなきゃだめなんだ。
“ふわふわ”こそロマンスの正体であり、生きる根源たる目的なんだ。きっと。
そこに確かなものを掴みたい。
ふわふわには全て意味がある。はず。
君は海。僕は山。
海は柔軟極まりなく、誰の指図も受けない。
山は海を突き抜ける。だが海は山を削り飲み込む事もある。圧倒的に海の方が強い。なぜなら、ふわふわした、”かたち”のないものに近いから。
じゃあ、なぜ山々は突き抜けんと挑み続ける?
山々は大地から隆起していて、大地の一部だ。大地は海底へと接続し、惑星の核となっている。
核が無くなれば、山々のつくり出す海岸線が無くなれば、海はかたちを保てない。海でなくなる。”かたち”を持たぬ海はただの水だ。
じゃあ、海には”かたち”がある?
海も、大地も、脈動している。そのエネルギーはどこから??外なる宇宙から?内なる宇宙から?
経験則から言うと、異なる性質のものが対峙するとそこにはエネルギーが生じる。
エネルギーは性質の相対性そのものからやってきているのかもしれない。
わたしたちはわたしたちである限り永遠に溶け合う事は無いだろう。
もし溶け合うとしたら、それは死か生誕のいずれか。もしくはそれに準ずる創作だろう。
海は今後も山を飲み込まんとし続けるだろうし、
山は今後も海を突き抜けんとし続けるだろう。
理念の大地。感情の海。
世界が保たれている。
君を強く拒絶し、同時に強く求める。
闘争も協調も、この世界では同義だ。
虚無と充実すら同義に思えてならない。
空は、それを悲観する事も、楽観する事も無い。
気まぐれかつ合理的に全てを裁く。もはや裁いてなどいない。
空はそら。
今日も君と、猫ちゃんの話しをする。
男は打ちのめされるために生きているのか。
落胆するには早い。
人生はいつもアポロ13号だ。